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Nowhere To Hide 無宿モノの世界中ポートレート

ジイさんの足跡 1 調査開始
















僕の父方の祖父は、ここミャンマーで戦死した。遺骨もどこにあるのか不明だ。僕が意図せずともここミャンマーに引き寄せられたことに、何か因縁めいたものを感じる。

数少ない信頼性のある遺族会資料に、「大久保忠二氏はトングーよりタイ国転進中、モーチ街道で戦没したものと思われる。」とある。

ミャンマー人の知り合いの助言で、ヤンゴンにある軍事博物館で下調べが必要とのことだったのが、電話による応答では、トングーを調べる手がかりは無し。とのことだった。

ミャンマーでの業務も終了し、自由な時間ができたきっかけに、少しでも当時の状況やジイさんの足跡が追えればとの薄い期待を込めて、現場であるトングーの調査にあたることにした。

祖父さんのことに関して知っていることは少ない。何せ僕の父親が赤ん坊の時に戦地に赴き、それ以来会っていないからだ。
父親も数回ミャンマーを訪れ、合同での戦没者慰霊を行ってきたが、突然ミャンマーに入って右も左もわからない状況での調査は無理だろう。









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ジイさんと呼ぶにはおこがましいが、戦死時39歳。今の僕よりも若い。





















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調査メンバーは僕と助手のAungちゃんの2人。Aungちゃんは今までODA業務で日本語通訳として活躍してくれ、僕とは酒飲み仲間の間柄だ。トングー市内でバイクを借りて動き回る。ツテは何も無い。




僕が下調べした上では、忠二ジイさんは陸軍准尉、近衛兵として従軍していた事もあるが、ミャンマー、当時のビルマでは陸軍の移動に伴い橋や道などを建設する建築勤務第101中隊というところに所属していた。通常であれば戦闘に参加しないはずだが、無謀な作戦による人員不足により戦闘に参加。ミャンマーとインドの国境付近にあるインパールに向かって進軍したが、インパール作戦失敗後、タイに向けて東に転身中にトングー近辺、シッタウン河を渡った先のモーチ街道沿いで戦死したと思われる。









何のツテも無いので、とりあえずトングー町の年輩の人に片っ端から聞き込みをした。

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U Myint Aung氏 トングー市内
シッタウン河で多くの日本兵が戦死し、流されたようだ。以前は軍刀や墓がよく見つかったが、もう維持している人たちは知らない。日本刀は品質が良いので売ってしまった村があったり、死体と一緒に埋葬してくれた村もあった。モーチ街道という名前は地元では誰も使っていない。モーチというのはトングーから東方(約50km)に向かった先にあるカヤー族の町の名前だ。現在は紛争中のため外国人は立ち入り不可だよ。
















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U Kyaet Nie氏 90歳(右) ティーライ村付近 
いきなり現れて質問責めする我々に親切に受け答えてくれ、知り合いにもっと知ってるのがいる、といってむりやり小さいバイクに3人乗りで移動。

当時日本軍が駐留していた時、日本兵に対して「マスター」と呼ばなければ「この、バカ」と言って叩かれたと笑いながら話した。覚えている日本語はそれだけだ。この村にも日本軍小隊長の墓があったそうだが、遺族調査団により遺骨、遺品等持ち帰られた。このすぐ隣のティーライ村には日本軍の倉庫があり、多くの日本兵がいた。年代は覚えておらず、恐らくトングー会戦に備えていた時期ではないかと推測する。











戦後ここを訪れ、後に日本で死去したK氏の墓があったそうだが、今では墓石だけが残る。

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夕暮れのシッタウン河。多くの日本兵が作戦失敗後の引き上げに際し、深夜にこの河を渡ろうと試みたが、衰弱のため渡りきれず多くの死体が流れていたそうだ。果たしてジイさんはここを通過していったのだろうか。






















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by hideoku0413 | 2015-08-18 21:41 | ミャンマー忠二じいさんの足跡