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マンダレーの日中














ミャンマーではヤンゴンに次ぎ、2番目に大きな都市マンダレー。ミャンマー北部に位置し、中国に接しているので中国人移民が多いと聞いた。相変わらずミャンマー内では、無免許の者にも旅行者とわかればバイクを貸してくれる。ミャンマー人も大した規制もなく簡単に免許が取得できるので大差は無いが、他の東南アジアの国々同様、近いうちにこういった大雑把なルールも変わってしまうだろう。







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by hideoku0413 | 2015-08-31 22:41 | ミャンマー | Comments(0)

ジイさんの足跡 8 ミャウメンター村















調査続行。バタウゴン村よりの情報で、多くの日本兵達はやや南に位置するこのミャウメンター村付近の河を渡ってたとされる情報を得たため訪問した。





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U Kyaw Tin氏 81歳

インパール作戦撤退時ではなく、友好関係だった訪問時、日本兵が近辺に3年間ほど住んでいたので、当時12歳頃だった彼は資材等を運ぶ仕事を手伝っていた。一緒に食事もしていたので数字のみ日本語を覚えている。マスターと言わなければ日本兵に怒られたとのことだが、今回戦時中以来初めての日本人との面会にとても喜んでくれた。

















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U Tan Khin氏 89歳

日本兵が河を渡ったのは雨季の増水中ではなく、乾季だと言うので、彼の記憶はインパール作戦の退却時とは別らしい。トングー町東のイギリス人が建設した現在でも主要幹線道路にある橋は、当然イギリス兵が警備していたため日本兵は渡れないので、多くの兵隊は夜中に人知れず渡ろうと試みたと思われる。

















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U Ship Pu氏 82歳

彼の記憶によると、シッタウン河の中州に架けられた桟橋からこの村を経由して25人~30人ほどの日本兵が渡って行ったらしい。
イギリス連合軍の空爆で日本の車両への攻撃等を目撃したという。これは間違いなく旧日本軍撤退時の事だろう。

















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by hideoku0413 | 2015-08-27 23:14 | ミャンマー忠二じいさんの足跡 | Comments(0)

ジイさんの足跡 7 バタウゴン村



















シッタウン河沿い東側の村をさらに少し北上し、西より多くの日本兵が河を渡り通り過ぎた可能性のあるバタウゴン村に向かう。






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道すがら、年輩の方が通り過ぎるので話を聞いてみることにする。

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このおじいさんは何も知らないとのことだった。遠い昔のことをもう忘れてしまったか、昔の嫌な思いを思い出したくないのかもしれないとふと思った。





















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村の寺院に案内される。こういう際、よそ者が訪問した時の村人たちの行動と伝達はとても素早い。住職の鶴の一声で数分もしないうちに小さい村の寺院に関係者が集まる。

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名前不明 87歳

覚えているのはインド兵、イギリス兵がいたこと、2人の日本軍人が作戦前に長く滞在していたこと。

たくさんの日本兵が退却時にシッタウン河を渡ったとされるが、月明かりのない夜中に渡ったので、この近辺での聞き込みではその事実は不明とのことだった。
















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Daw Tin Han氏 70歳

何と戦時中、日本兵とミャンマー人女性との間に生まれた子供だと言う。軍医として京都より出兵したマシマさんというのが父親の名前だそうだ。彼女が生後4カ月の時に父親は帰国した。その後ミャンマーには戻って来ていないらしい。父親は20歳で軍人として出征したので今90歳位ではないかとのこと。母親は45歳で他界した。旦那に会いに日本にずっと来たがっていたが叶わず。

彼女の話を聞いて唖然とした。彼女にも日本人の血が入っているが、ミャンマーの情勢、生活環境等の事情で日本に来ることは叶わなかった。請われたが、僕に果たして彼女の父親を苗字だけで探し出すことは可能だろうか。

安易な約束はできなかった。












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by hideoku0413 | 2015-08-26 23:19 | ミャンマー忠二じいさんの足跡 | Comments(2)

ジイさんの足跡 6 旧日本軍基地への道路建設



















旧日本軍の基地があったとされる場所付近で聞き込みを進めるうち、ある寺院に突き当たった。そこの坊さんは親切にも、当時旧日本軍によって建設された道路を案内してくれた。建築部隊に属していた僕のジイさんも、もしかしたらこの建設に関わっていたのだろうか。





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パヤー(仏塔)に続く道に接しているが現在はほとんど使われていない。





















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旧日本軍が基地建設に伴い建設したレンガ敷きの道路。前述のU Yin氏もこの付近で作業に従事したと思われる。




















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by hideoku0413 | 2015-08-25 20:31 | ミャンマー忠二じいさんの足跡 | Comments(0)

ジイさんの足跡 5 トゥンブー村
















モーチ街道をさらに東に進むことは、ここではタブーのようだった。武装した少数部族が潜み、政府軍との戦闘が続いている。

東に進むのを断念したので、トウングー方面に戻り、多くの日本兵が強行して渡ったシッタウン河近辺を探る。






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村ではオジサンがデカい農作物を運ぶカゴを修理している。竹で編んだカゴに隙間があるので、牛の堆肥と粘土を水で溶かし、間に塗り込む作業中。















トウングーから河を隔てた場所に位置するトゥンブー村ではまず、地元の権力者のオッサンを紹介された。彼から年輩の戦争体験者を紹介してもらうつもりだが、話は思わぬ方向に向かう。


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U Hla Shwe氏

何でも彼の一人息子が90年代に日本に渡航し、ある時期を境に連絡をしてこなくなったそう。親父は怒っているぞ、と伝えてくれと言うが、、、、




















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昔の手紙を引っ張り出して、転々とした日本の住所を調べだす。そのうち助手のAungちゃんも乗り気になったので、仕方なく書いてある電話番号に数件国際電話をかけるが現在は使われていない番号だった。



















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一人息子のU Thant Zaw Oo氏。音信不通の理由や安否が気になるのは確かだ。やれることはやったが何も手がかりはつかめなかった。そのうちに呼び出してくれていたジイサンが、ひ孫の運転するバイクに乗って訪問してくれた。




















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U Yin氏 85歳位と言っているが不詳

日本兵と一緒に住んでいた時期がある。道路工事の手伝いとして子供時代に従事。背が高いほど日当が良いので、並ばされる際は背伸びしたり、足の下に石を置いたりしてごまかしたそう。また旧日本軍が造幣していた紙幣(大日本帝国政府発行のルピー)の機械が付近の洞窟内にあり、すぐ造れるし、通貨が安定していないので使ってほしくなかったとの事だがそれで支払われた。事実敗戦後はただの紙くずになる。

車6台で運ばれてきた銃や爆弾等を洞窟内の倉庫に手運びで手伝わされたミャンマー人は、目隠しされ口封じのため銃殺されたこともあったという。




申し訳ない。

僕が謝ったところで何も救われないだろうが、謝らずにはおけなかった。









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U Nge Doo氏 90歳

1945年より軍人。当時の戦況が変化すると同時にミャンマー国軍、イギリス軍、日本軍、カイン族軍として参加した経歴あり。記憶力ははっきりしていたが、日本人の名前等は何も覚えていない。


















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僕のジイさんの足跡を辿る理由で、日本人からの主観として今回の調査を進めているが、ミャンマー人側にも彼らの傷ついた過去が多く存在している。彼らは被害者としてあまり多くは語ってこなかったが、各村々での記憶として確かに残っている。今まで出会ってきた戦争体験者からの聞き込みでも、日本人が車ではたどり着きづらいこの村の奥地まで話を聞きに来たことはなかったと聞いた。そしてあと15年早く来るべきだったよ、と言われた。東に進むモーチ街道へも、情勢が安定して外国人が行けるようになれば僕自身、行く必要があるだろう。





























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by hideoku0413 | 2015-08-24 21:19 | ミャンマー忠二じいさんの足跡 | Comments(0)

ジイさんの足跡 4 タンダウン町付近

















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モーチ街道をトングーからモーチ方面に東に向かった途中にあるタンダウン町沿いの川。山岳地帯に入るため清流のきれいな水が流れる。この町は比較的新しいため、高齢者は住んでおらず、聞き取り不可。また、これより東は規制のあるカヤー州に入ってしまうため進行断念せざるを得なかった。



















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現在のモーチ街道。山麓近辺のため山深く、谷あい道が多い。その後ミャンマーの日本大使館で聞き込みをしたところ、2回行われた遺骨調査団の2回ともこの付近は調査されておらず、未知な事が多い。(西のトングー近辺、及び東のモーチ近辺は調査された記録があるが、この街道沿い約数十キロ間は未済。原因不明。)森林地帯の続く、人里離れたエリアのため、聞き込みもままならず、今までほとんど掘り返されていないであろう地域だ。ここに何等かの歴史が眠っているような気がしてならない。
















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戦時中当時とほぼ変わらない農作業風景に違いない。ジイさんも同じような景色を眺めていただろう。




















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by hideoku0413 | 2015-08-23 21:05 | ミャンマー忠二じいさんの足跡 | Comments(0)

ジイさんの足跡 3 パヤーチージン村


















日本軍の規模の大きな基地があった場所に向かう。

この場所に行くには州境を越えねばならない。境には外国人立ち入り禁止の物々しい看板や、一応そこに詰めている役人がいるが、関係なくバイクで通り過ぎる。これより先はキリスト教徒が多いらしく、十字架の立つ墓場などが目立つ。これより東に行けばいくほど少数部族の紛争地帯に入っていく。

この道は、ジイさんが戦死したとされる通称モーチ街道(現在では使われていない名前だが、東のモーチへ続く道として日本兵がそう呼んでいた。)へ続く道だ。ここは避けて通れない。






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高台になっているこの丘には日本軍倉庫および基地があったそう。西方全域が見渡せるので拠点としては都合のよい場所のようだ。現在は村(パヤーチージン村)が形成されており、頂上には仏塔及び寺院がある。



















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丘の上の現在の住職。この近辺は戦闘の激戦区でもあり、多数の死傷者が出たそう。また戦後、ヘルメット、軍刀、爆弾等が見つかっているそうだ。この丘には日本兵が利用した3か所の洞窟があり、現在も2か所を見ることができるとのことなので行ってみた。



















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のぼり口と同じ道だ。行きしなには気が付かなかった。





















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この洞窟には10人~12人程度の兵隊が隠れ、ガソリン等を隠していたそうだ。(奥行き約8m、幅1m、高さ1.5m程度)




















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この丘の下の街道沿いは、激しい戦闘で亡くなった日本兵の墓地として埋葬されていた場所だが、つい最近の土地造成地区として、山側の土地を切り崩して埋め立てられてしまっていた。今までに何回も日本からの遺族会が訪れ、遺品は全て堀出したとのことだったが、残念でしかたがない。掘り起こさずに埋め立ててしまったので、知るすべがない。


















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U Chit Sein氏 87歳 
元ミャンマー軍人(現在はこのパヤーチージン村に住んでいるが、戦時中は国内を転戦。この村近辺の事は戦後に聞いた話として知っている。)
日本軍がタイ方面より進軍してきた際は、アウンサン将軍が連れてきた仲間として見なされ、日本兵に村々でもおもてなしできたが、退却する際はミャンマー軍は敵対する相手となってしまい、食事を与えることもできなかったとのこと。また2回目にミャンマーに進軍してきた日本軍は、マンチューコー(満州国?)の兵隊を連れてきており、その兵隊達が村の娘達をさらったりしたせいで、日本軍の印象が良くない面もある。彼自身、マンチューコーは日本の島だと思っており、日本が植民地化した中国の一部だとは知らなかった。(マンチューコーが満州国かどうかは事実未確認。)


















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by hideoku0413 | 2015-08-22 22:12 | ミャンマー忠二じいさんの足跡 | Comments(0)

ジイさんの足跡 2 ピンウールウィン

















戦時中の日本軍の進撃は凄まじかった。僕が仏塔を復興した閑散とした村もそうだが、ビルマのそこら中で軍が通り過ぎた記憶が残っている。

僕のジイさんが戦死したとされる場所とは異なるが、ミャンマー北東部のピンウールウィンを旅した際に出会った家族にも当時の日本軍の話を聞かされた。

ここはAungちゃんは同行せず、僕一人での旅の途中、バイクを借りて周囲をうろつく。








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インド系ミャンマー人の彼は、当時日本軍人のウチノさんと知り合いになった父の話を懐かしそうに話してくれた。

僕が彼と出会うきっかけとなったのは彼の息子のお蔭だった。ピンウールウィンの町中の縫製屋で働く彼が、僕が日本人だとわかり、ぜひ父に会って欲しいと言ってくれたからだ。



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ウタンミン氏(左)、戦争を体験した彼の父が懐かしそうにウチノさんとの話を聞かせてくれたことを思い出すと言う。彼のもとに日本人が訪れたのは初めてのことだそう。当時の話を大事そうに聞かせてくれたが、僕のミャンマー語理解不足のため詳しくは不明。




















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当時の貴重な写真。ウチノさんのご家族もご存じ無い写真かもしれない。









ここピンウールウィンにはもう一か所行きたいところがあった。

町で話を聞いているうちに、日本軍の墓地があるよ、とのことだったので、お参りしに行きたいと思ったのだ。

実際地元の人に詳しい場所を聞き込んでみると、中々知っている人は少ない。無免許でバイクを運転しているにも関わらず、平気で交番に行って聞いてみたりしているうちに、地元の郊外の住職を紹介された。さらにその住職から寺の管理人等数か所たらいまわしにされたが、ミャンマー人の男は暇な連中が多い。バイクで離れたその場所まで案内してくれた。

何でも軍事施設の敷地内らしい、が、裏のフェンスを乗り越えて何とかたどり着き、手を合わせることができた。





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by hideoku0413 | 2015-08-19 21:51 | ミャンマー忠二じいさんの足跡 | Comments(2)

ジイさんの足跡 1 調査開始
















僕の父方の祖父は、ここミャンマーで戦死した。遺骨もどこにあるのか不明だ。僕が意図せずともここミャンマーに引き寄せられたことに、何か因縁めいたものを感じる。

数少ない信頼性のある遺族会資料に、「大久保忠二氏はトングーよりタイ国転進中、モーチ街道で戦没したものと思われる。」とある。

ミャンマー人の知り合いの助言で、ヤンゴンにある軍事博物館で下調べが必要とのことだったのが、電話による応答では、トングーを調べる手がかりは無し。とのことだった。

ミャンマーでの業務も終了し、自由な時間ができたきっかけに、少しでも当時の状況やジイさんの足跡が追えればとの薄い期待を込めて、現場であるトングーの調査にあたることにした。

祖父さんのことに関して知っていることは少ない。何せ僕の父親が赤ん坊の時に戦地に赴き、それ以来会っていないからだ。
父親も数回ミャンマーを訪れ、合同での戦没者慰霊を行ってきたが、突然ミャンマーに入って右も左もわからない状況での調査は無理だろう。









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ジイさんと呼ぶにはおこがましいが、戦死時39歳。今の僕よりも若い。





















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調査メンバーは僕と助手のAungちゃんの2人。Aungちゃんは今までODA業務で日本語通訳として活躍してくれ、僕とは酒飲み仲間の間柄だ。トングー市内でバイクを借りて動き回る。ツテは何も無い。




僕が下調べした上では、忠二ジイさんは陸軍准尉、近衛兵として従軍していた事もあるが、ミャンマー、当時のビルマでは陸軍の移動に伴い橋や道などを建設する建築勤務第101中隊というところに所属していた。通常であれば戦闘に参加しないはずだが、無謀な作戦による人員不足により戦闘に参加。ミャンマーとインドの国境付近にあるインパールに向かって進軍したが、インパール作戦失敗後、タイに向けて東に転身中にトングー近辺、シッタウン河を渡った先のモーチ街道沿いで戦死したと思われる。









何のツテも無いので、とりあえずトングー町の年輩の人に片っ端から聞き込みをした。

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U Myint Aung氏 トングー市内
シッタウン河で多くの日本兵が戦死し、流されたようだ。以前は軍刀や墓がよく見つかったが、もう維持している人たちは知らない。日本刀は品質が良いので売ってしまった村があったり、死体と一緒に埋葬してくれた村もあった。モーチ街道という名前は地元では誰も使っていない。モーチというのはトングーから東方(約50km)に向かった先にあるカヤー族の町の名前だ。現在は紛争中のため外国人は立ち入り不可だよ。
















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U Kyaet Nie氏 90歳(右) ティーライ村付近 
いきなり現れて質問責めする我々に親切に受け答えてくれ、知り合いにもっと知ってるのがいる、といってむりやり小さいバイクに3人乗りで移動。

当時日本軍が駐留していた時、日本兵に対して「マスター」と呼ばなければ「この、バカ」と言って叩かれたと笑いながら話した。覚えている日本語はそれだけだ。この村にも日本軍小隊長の墓があったそうだが、遺族調査団により遺骨、遺品等持ち帰られた。このすぐ隣のティーライ村には日本軍の倉庫があり、多くの日本兵がいた。年代は覚えておらず、恐らくトングー会戦に備えていた時期ではないかと推測する。











戦後ここを訪れ、後に日本で死去したK氏の墓があったそうだが、今では墓石だけが残る。

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夕暮れのシッタウン河。多くの日本兵が作戦失敗後の引き上げに際し、深夜にこの河を渡ろうと試みたが、衰弱のため渡りきれず多くの死体が流れていたそうだ。果たしてジイさんはここを通過していったのだろうか。






















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by hideoku0413 | 2015-08-18 21:41 | ミャンマー忠二じいさんの足跡 | Comments(0)

マンダレー郊外の夕陽


















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by hideoku0413 | 2015-08-16 16:50 | ミャンマー | Comments(0)